だいたい不精な家庭なら、床に敷いた布団から、手を伸ばせば届くように電灯の紐というやつは伸ばしてあるはずだ。
うちもご多分に漏れず、床面から1メートル少々の高さ、大人が眠る間際に、ちょっと布団から手を伸ばして引っ張るのにちょうどいい位置に合わせてある。
うちは夫婦共働きなのだが、私の方はだいたい夜が仕事なので、寝るのは昼間になる。
日中家内が働いている間、小さな娘の面倒も私が見ているが、特別なことは何もない。ご飯をやり、オムツを替え、風呂に入れる。あとはテレビを眺めさせておくか寝かせておくか、といったくらいで、楽なものである。ごろごろ寝るばっかりの赤ん坊の世話など、慣れればそう大変ではない。もともと子供は好きな方だったので、我が子を見るのはこの上なく心温まる、癒しの時間だといえる。
昼寝をする子供の寝顔を眺めたまま手を伸ばして、電灯の紐を引っ張って一緒に眠るのが私の常であった。
その娘が一歳を数え、徐々に頼りない足取りで部屋の中を動き回るようになってきた。
私は自分でも意外なことに、娘がその足で立って歩き出したことには何の感慨も湧かなかった。立った、立ったと家内が騒いだときも、そりゃあそのうち立つだろう、などと当たり前のように受け止めていた。
それよりも──、それまではただ寝転がって大人しくしている赤ん坊を可愛がっていれば良かったのが、動き回ることで目を離せなくなるのが正直不安だった。
私も一応、夜の仕事に備えて日中少しでも眠る必要がある。寝ているだけの赤ん坊と一緒ならそれも容易いのだが、動き回る一歳児となると話が違う。
私は自分が寝ようとするときは、娘を捕まえて寝かし、電気を切って部屋を暗くして、大人しくなるのを待った。もちろんそのまま娘も眠りについてくれることもあるのだが、多くの場合、布団から出て行って玩具などを求めてあちこちに行ってしまう。何せ、好奇心の塊に足が生えてしまったようなものなのだ。
私は十分な睡眠時間が次第に取れなくなり、少しずつ子育ての煩わしい部分を感じるようになっていた。
オーラスを、微差のトップ目で迎えた南家だった。第1巡目、何を切る?
安直に手なりで打てば、

や

に手をかけるのだろう。もちろんそうやって、リーチのみを目指して真っ直ぐに手を進めて行くこともあるだろう。
しかし、和了りトップのこの状況なら、様々な役の可能性を自分で潰して良いものだろうか。平和であったり、タンヤオであったり、役牌であったり
──、和了る方法はいくらでもある。
私はここから敢えて、対子の

を1枚切ってみた。
そして次巡引いた

を、また

と入れ替えた。
これでどうだろうか。重なる役牌の種は3種もあるし、面子が埋まっていけば、平和やタンヤオに進めて役牌は落としていけばよい。
無策でただ手なりに進めていくことは、結局手牌の成長の幅を狭める行為なのである。
無限の手役の可能性があるのに、知らず知らず枷をつけてしまうこと。
実はこれは、普段の私が行っていたことなのである。
ある日、私はいつものように娘を抱えて布団に横になって、天井からぶら下がった紐を引っ張って電気を消した。やはりというか、娘は私の腕を逃れて、薄暗い部屋中をのそのそと動き回っていた。
じっとしていてくれよ
──。
私は溜息をついて、娘に背中を向けて目を閉じた。
そのとき不意に、電気が点いて部屋が明るくなった。
なんだ?
横になったまま私が振り返る。
すると明るい電灯の下で、一歳の娘が、一所懸命にそのか細い手を伸ばして、電灯から伸びた紐を握りしめていたのである。
ふらふらと背伸びをして、とても届きそうもなかった電灯の紐を引っ張ったまま──、得意気に、娘は笑っていた。
娘がハイハイをしても、2本の足で歩き出しても、特にこれといった感慨のなかった私だが、思わずこの瞬間は、こみ上げるものがあった。
私がいつも紐を引っ張って電気を消したり点けたりしているのを見て覚えていて、娘は自分の力で立ち上がって手を伸ばして、電気を点けたのだ。
人間の持つ無限の成長の可能性というものを、私はこのとき初めて知ったのである。

撮影・加工 須田 良規プロ
歩き出すということ自体は、自然な人間の身体的成長であって、目を見張って驚くようなことではない。しかしそれは、溢れる好奇心をその場に連れて行って、行動を起こすことの始まりであり、人間の人間らしい成長への第一歩なのであった。
私は立って歩き出した娘を、やや煩わしくさえ思っていた。本棚の本はひっくり返してしまうし、家の鍵はどこかに隠してしまう。大人しく寝ているだけの乳飲み子の方がずっと楽だ。
しかし、私がそれを咎めていては、娘の本来の成長の枷となってしまう。様々な成長の可能性を、私が狭めてしまっていたことにようやく気がついた。
この局は結局、重ねた

を叩いたことで和了りを拾えた。配牌で、手役の可能性を広く求めた結果、明るい和了りの灯をともすことが出来たのだ。
子育ては、ペットを可愛がる行為とは全く違う。
もちろん子供の愛くるしさに心癒される瞬間があるのも事実だが、子育ての本質は、子供を自立した大人に育てることだ。可愛がるだけのうちは、親も所詮未熟なものなのだ。
子供が一歳なら、親としての私もまた一歳である。
成長していく幅は、まだまだ共に、無限に広がっているであろう。

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