例えばこんな手牌。こういうドラ1のカンチャン手は、即リーチすることが望ましいとされている。これは昨今の麻雀の統計的研究の成果で、もちろん三色や平和の手変わりを待ちたいという打ち手も多数いることは分かるのだが、期待値的に優位なのは即リーチの一手なのである。もはやこれはマニュアル化されているといっていい。
友人の女性が、よく4歳の息子と2歳の娘を連れて遊びに来る。その彼女が、先日こんな話をしていた。
正月に旦那の親戚周りをしたとき、とある資産家の家庭で唖然とすることがあったと。そこではずいぶんと子供が甘やかされていて、やたらと買い与えられた高価な玩具が、箱も開けられずに山積みにされている。子供は高々と積み重なったその箱を倒して遊ぶ、という傍若無人ぶりであったらしい。
彼女がお年玉を渡すと、その子は無論お礼など口にはせず、彼女の手からお年玉を奪うように取って、先方の母親に投げつけ、「ぼくたくさんもらってるから、あきちゃった」と。
もちろんこれは、子供が悪いわけではない。同じように子を持つ者として、こういう子供を野放しにする親がいることを悲しく思う。金があって、食事を与え、衣服を与え、玩具を与えることだけが子育てではないだろう。
育児については、様々な基本マニュアルというものが存在する。うちも子供が生まれてから、たくさんの書籍を購入したり、知人にお祝いで頂いたりした。生後の月数に応じた食事の方法や、自我が目覚めつつあるときの接し方など、初めての子育てを手助けしてくれる不可欠なものである。
しかし、しつけや教育など、最も重要な部分は自分たちで手探りでそのマニュアルを探していくしかないだろう。親の側も、日々勉強なのである。決まったやり方など、ない。
南家5巡目、望外のドラを引いてきたところである。もちろん切りで聴牌なのだが──。
場にはが1枚切られており、また関連牌としては枯れている。どうだろう。即リーチが当然の一手だろうか。
先述のマニュアル通りの判断をすれば、これは手変わりなど待つ必要はないのかもしれない。しかし、これはドラ暗刻のチャンス手であり、出来れば少しでも確実な和了りを目指したかった。
もちろんこうした方が確実なのか、と聞かれれば私も分からないとしか答えようがないのだが──、私は打と行ったのである。
これで萬子が好形になれば切りリーチ。かを引けば456の三色なのでダマ満貫に取れる。
すると上家の親がすぐをツモ切ってきた。和了り逃しだったかもしれないが、リーチをしていれば無論すぐ出た牌ではない。
これをチーする。
そして打。クイタンへの移行である。
またすぐ上家からが出て、鳴いて聴牌。
対面のを討ち取って、満貫の和了りとなった。
これが正着であったのかどうかは分からない。だいたいもともと聴牌形なのに、実質クイタンのリャンシャンテンを見るのだから、強くこう打つことを薦めるものではない。統計的データを取れば、やはり切り即リーチが優位なのかもしれない。
それでも自分なりに、手探りで和了りのルートを見つけたかったのである。冒頭の手牌とは違い、食っても満貫は確保される。リーチするなら良い形にしたいし、ダマで役有りに取れればそれも望ましい。
麻雀も日々勉強であり、マニュアル化された部分もあれば、そうでない部分もあるだろう。
友人の子供は、とても優しく可愛らしい兄妹で、二人のやり取りにはいつも暖かい気持ちにさせられる。
もっと小さなうちの赤ん坊が、妹の持って来ていた玩具で遊んでいた。決して高価なものではない。妹はそれを、寂しそうに眺めている。本当はそれを取り返したかったのかもしれないが、親たちの見ている前で無理にそうすることの身勝手さを理解しているのだろう。静かに涙を滲ませて、しかし兄に泣きついた。
すると兄の方は、
「ぼくのもっているおなじおもちゃをあげるから、なかないで」
と妹をなだめたのである。4歳の男の子と2歳の女の子が、この心遣いである。
いい子たちに育てているな、と友人に対して感心した。
友人には、子供の育て方について色々教えてもらうことも多い。マニュアルのない子育てという大海において、身近にいる先人の存在というのは有難いものである。
子供は、ドラ暗刻のチャンス手のように大切なものだ。思考を放棄してただリーチ棒を投げるよりは、様々な方法を模索しながら和了りを成就させてやりたい。
友人も私もそうやって、日々自分のマニュアルを作り上げていくのである。