先日、知人と歌舞伎町を飲み歩いていたときのこと。
恰幅のいい中年の日本人男性と、それを取り巻く中国人らしき若い女性が何人か、大きな声で世間話をしながら通りを占拠するように歩いていたのである。
どこかで水商売をやっている一団であろう。邪魔だな、と思いながら横を通り過ぎると、ふと一人の女性に目が留まった。
私は彼女に見覚えがあった。昔私の働いていた雀荘に、常連客が連れてきたことがある。
当時彼女は学生で、日本語の勉強をしながらアルバイト生活をしていた。
「彼と結婚するんですよ──」
当時彼女は、その常連客のことをそんな風に話していた。
騙しの一手、というものがある。
先日あったMaru-Janの1局。⇒
親番で、配牌はこうであった。
5巡目。ここからドラのを切る。すぐにを被ってしまうが、8巡目にこの形。
これはもう七対子でいいだろう。
9巡目、ツモと来た。
この、実は3巡目に自分で切っている。しかし、全体的に字牌は安く、
は山に残っている確信があった。手に留めて、場に極端に高い筒子を嫌い、打。
イーシャンテンならはフリテンではない。聴牌を果たすために、山に残っていそうな牌を抱えることはむしろ自然なことだ。
そして、こういう残し方は、思わぬ効果をもたらすのである。
11巡目、ツモで聴牌。
上家と下家に萬子は安い。待ちは悪くない、と打でリーチ。
結局は1枚下家がツモ切って、もう1枚も確かに山にいることが牌譜で分かる。イーシャンテンでこのを残したことは、確かに好手だった。
そしてこの河──、七対子にはちょっと見えないのである。
期せずしてドラを散らしていることもあるが、「序盤で切っている牌」をリーチの宣言牌にすると、単騎待ちというのは通常否定される。
この局では単純な山残りの数牌待ちであるが、待ちが筋引っ掛けや他の字牌待ちである場合、相手が厳しい面子であれば、七対子を匂わせないように
打つ。これも、その方法の一つといえよう。
騙す方は様々な手段を講じるものだ。
受け手がそれで騙されるかどうかは、各人の裁量によるだろう。
騙し騙されは、世の常なのである。
望外のツモ和了りを果たしたもの、私は自分の捨て牌を、嘘つきな河だな──、と自嘲気味に眺めていた。
彼女が結婚すると言った常連客は、当時他にも何人か、見知らぬ女性を連れてきたことがあった。まだ幼い表情の残る彼女に、店の人間が冷たい現実を教えることなどできなかった。
騙されていた彼女はいつしか店に来なくなり、店には嘘つきな常連客だけが残った。
どんな境遇を経て、今の生活に落ち着いたのかは知りようもない。しかし、元気そうな彼女の様子は、いくらか私を安心させた。騙し合いの大人の駆け引きにも慣れ、元気にやっていることを願った。
「誰か、知り合いでもいた?」
立ち止まって一団を見送った私に、怪訝そうに知人が尋ねる。
今はどこかのクラブで、鼻の下をのばす中年の日本人を騙して、手玉に取っているのかもしれないさ──。
そう思って、私は少し微笑んで、また歩き出した。