遅ればせながら自己紹介がてら、自分の麻雀観を話したいと思う。
東大を卒業して10年になる。私は、雀荘のメンバーと、麻雀プロをしている。──他に、行く当てが無かったのである。
大学に入ってすぐの頃は、授業も毎日出ていたし、サークル活動にも没頭していた。世間一般のキャンパスライフというものを人並みに送っていた。それが麻雀を覚え、雀荘に入り浸るようになった。1年、2年と過ごすうち、私の生活は次第に牌で埋め尽くされていく。麻雀以外のことに興味を持たなくなり、麻雀以外のことができなくなった。
今や年間数千半荘を打っている、麻雀しか分からない者の所見であるが──、麻雀で勝つためにはファインプレイを求める必要はない。エラーを無くし、コツコツと素点を稼ぐこと。結果はそれでついてくる。
何せ麻雀で負けていては生活が出来ないのである。流れや体勢といったギャンブル特有の精神論に毒されていた時期も無論あるが、結局勝つにはドライに正着を打ち続けることが不可欠であると現在は認識している。
よく鳴いて、よく和了る。打点の多寡にはあまり拘らないが、放銃は極力避ける。重要なのは
スピード。これくらいのシンプルな戦術で、ある程度の成績は残せるだろう。Maru-Janはまだ東風400戦程度だが、平均順位は2.1台を保っている。
しかし、先日Maru-Janの掲示板で、私がクイタン三色の2900で和了りトップを取った牌譜をアップロードすると、こんなコメントがあった。
「私は、そういう手は、少なくとも教える立場の方が勧めるべきとは思いません。それでなくても、何でも食いたがる方は結構いますし・・・」
──なるほど色々な考え方の人がいるものだ、と思った。
口調から察するに、やや年配のユーザーであろう。トップを目指す正着、というのはどうも万人受けするわけではないらしい。
門前で美しい手を和了ったり、奇跡のファインプレイを目指したりすることが、麻雀の醍醐味だと考えている方は少なからずいる。
私はプロであるから、成績に拘らないわけにはいかない。メンバーであるから、麻雀の負けが生活を脅かすこともある。しかし、麻雀の楽しみ方というのは、人それぞれであっていいと思う。
と来て、ひょいとドラのを放した。相手を舐めたわけでもないが、切るなら今であろう。ポンの声もかからず、後は真っ直ぐ聴牌に向かおうと思っていた。
すると7巡目、西家からリーチがかかる。
単騎の七対子である。なるほどチャンタ仕掛けの南家からこぼれるかもしれぬリーチである。というか、この牌譜を見る限りでは、南家が打つしかなさそうな状況ではないか。
私はリーチに対して早々に手仕舞いするも、南家はなかなかその対子のに手がかからない。親がドラの
を切った。
これでは2枚枯れである。
南家はまだこの形で押している。
ドラを切った東家も手を進め、ここまで形を整えてきた。
南家、打。
これをなんと──、東家がポンしてしまうのである。
タンピン一盃口や二盃口のイーシャンテンを崩し、衝動的に鳴いてしまったのか。
そして西家が今ツモるはずだった牌が、南家に食い上がる──!
は場枯れ、
はリーチした西家の待ち牌である。奇跡の満貫と言っていいのではなかろうか。
私には多分、一生和了れない手牌だったと思う。悪く言えば、無理筋ではあるだろう。それでもなんというか、このファインプレイには感嘆の声をあげてしまったのである。
勝負に拘るのも、奇跡の和了りを目指すのも、麻雀の楽しみ方の一つである。そしてより胸を打ち、心に残る牌譜を残せるのは、私のような機械的な打ち手ではないのだろう。
もっとも、その南家はラス前にリーチ者にドラを打ち、跳満を献上してトップから転がり落ちて
しまったのだが──。
惜しかったねと苦笑しつつも、再戦が楽しみになったのである。